【ライブレポ】〈はにぃパラダイス 特別寄稿〉  一九八五年三月二一日の『ザ・ベストテン』と 二〇一七年三月一八日の女の人

こんにちは、おとバン蔵です。
 
2017年3月18日に開催したおとバン114 ひなまつりスペシャルに出演した「はにぃパラダイス」の演奏を聴き、ウエノさんが文章を届けてくれました!
 
 
長文ですので・・・
 
お時間のある方はご覧下さい!!
 
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私にとって、音楽の原体験は、トランジスタラジオから聴こえてくるザ・ビートルズであった。

 
そのころ、私は中学生で、ケンカに明け暮れていた。
顔に生傷が絶えなかった。ガールフレンドがハンカチで血を拭ってくれた。一滴だけ、ハンカチに涙が滲んでしまった。
 
女の子は、少し微笑んでくれた。
そっと、唇を重ね合った。いつしか『恋する二人』が流れていた。
 
 
というのは、まったくの嘘だ。
 
 
 
私の音楽事始めは、小学校時代のテレビ番組『ザ・ベストテン』であった。
テレビをつけたら、マッチやトシちゃんや、聖子ちゃんや今日子ちゃんや奈保子ちゃんが歌っていた。
学校ではみんなマッチを真似ていた。思春期前だったが、今日子ちゃんはオレ好みのオンナだという認識に既に至っていた。また、奈保子ちゃんの強烈な胸を起点に、私の長く孤独なおっぱい研究者としての道が始まった。
 
 
変わった人としては、キヨシローさんが坂本教授とお化粧をして、歌いながら男同士でキスをしたりしていた。
 
「ベイベー」という響きがかっこよかったし、「い・け・な・い」と歌っていて、ホントにい・け・な・いものを見ているような気がした。
 
 
もっと変な人たちは、サザンオールスターズだった。
 
他の歌手がきれいな衣装で出ているのに、汚いTシャツとジーパンで出てきた。寝っころがって『チャコの海岸物語』を歌っていた。
何を歌っているのかわからなかった。
ホント、大嫌いだった。
 
でも次の『Ya Ya~あの時代を忘れない~』という曲には、「あれ、この人たち、ホントは真面目なの?」と思わされたものだ。
 
 
それから間もなく、私は日能研などに通うイヤなガキになって、木曜日はテレビを見られなくなってしまった。
しばらく音楽を耳にすることもなくなった。
 
 
やがて中学受験が終わり、小学校を卒業した春休みに、久方ぶりに木曜夜九時にチャンネルを合わせた。いま調べたら、一九八五年三月二一日のことであったらしい。
 
 
二人の綺麗なお姉さんが、セーラー服を着て出ていた。
黒柳徹子さんと話す二人は、とてもおしとやかだった。
二人とも、奇しくも『卒業』という同じ題名の、それぞれの別の歌を歌っていた。両曲とも、舞い散る桜を思わせた。
 
お姉さんたちは、斉藤由貴ちゃんと菊池桃子ちゃんというのだそうだ。
以前は喧噪に満ちていた番組だったが、だいぶ落ち着いたものだなあと思った。それは実は私が、少し大人になったためでもあったのだが。
 
 
それからなんとまあ三十二年も経って、私はたいそう汚れた大人になってしまった。
 
 バンドなんぞというものを、身にも金にもならないのに、だいぶ長くやっていたりもする。『ザ・ベストテン』のことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。
 
 
いろいろなバンドのライブを観ることも多くなった。
二〇一七年三月一八日に観たバンドは、女の人がセーラー服を着ていた。ピアノのイントロが始まる。あれっ? この曲は、斉藤由貴ちゃんの『卒業』ではないか。
 
二〇一七年三月一八日のセーラー服の女の人は、声を抑えて歌っていた。
ささやくような歌声であった。
 
しゃべり声はよく通っていたので、わざとああやって歌っているのだろうと、すぐにわかった。
音程は正確だった。
何より、歌心がよく込められていた。
 
 
一九八五年三月二一日に感じたような、桜吹雪が脳裏に浮かんだ。
「ああ/卒業式で泣かないと/冷たい人と言われそう」という歌詞に、当時私は、女の子ってやっぱり大変なんだなと思った。
 
 
泣きたければ泣けばよい。泣きたくなければ泣かなければよい。
人の目を気にすることなのどあるのだろうか。一九八五年三月二一日の斉藤由貴ちゃんは、そういったことに疑問を抱かず、等身大の気持ちを歌っているように見えた。
 
 
でも、二〇一七年三月一八日のセーラー服の女の人は、そういういろいろなことを咀嚼して、歌っているように思えた。
由貴ちゃんの真似をしていても、セーラー服からは大人の色香が知らぬ間にこぼれ落ちてくる。人生のいろいろな出来事を、俯瞰して歌っており、その分、この楽曲の持つ色合いが増していた。
 
 

二〇一七年三月一八日のセーラー服の女の人も、一九八五年三月二一日のセーラー服の斉藤由貴ちゃんをテレビで見ていたのだろうか。
もしかしたら、私と同じ横浜で見ていたのかもしれない。そしてもっともしかすると、私と同じように、「あと少しで中学生になる。友達と仲良くなれるだろうか。英語の授業にはついて行けるだろうか」と、いくばくかの不安を抱えながら、それでも大いなる希望を胸に、見ていたのかもしれない。
 
 
しばらくして、『悲しみよこんにちは』が歌われた。私が中学二年生の一九八六年の時の曲である。
斉藤由貴ちゃんはNHKの朝の連続テレビ小説の『はね駒』のヒロインをやっていた。
 
『ザ・ベストテン』にも出ていたが、ドラマ撮影が忙しいとのことで、NHKの前に「出前セット」を拵えて、出演していたりしていた。同じころ、昔は寝っころがって歌っていたサザンの人も、クワタバンドというバンドで『ザ・ベストテン』に出ていた。
私はもう半分大人になっていたので、彼らのやっていたことが漸く理解でき、かっこいいとさえ思うようになった。翌年、武道館に解散コンサートを観に行ったりもした。
 
 
二〇一七年三月一八日の女の人は、一曲目の抑え気味の歌唱方法から解放されて、この曲は、少しの憂いを感じさせるも、元気よく歯切れよく歌っていた。思春期の坂を迷いつつも快調に駆け上がっていく感じがした。多分だけど、私と同じように、青春に特有の悩みを抱えながら、横浜での中学時代をエンジョイしていたのかもしれない。
 
そういえば、斉藤由貴ちゃんも同じ横浜の出身で、私の親戚の近所に実家があると聞いたのも、この曲のころであった。
 
 
最後の曲は、菊池桃子ちゃんの『渋谷で五時』であった。桃子ちゃんも、一九八五年三月二一日の『ザ・ベストテン』に出ていた。
 
 
『渋谷で五時』は、シャネルズの人とのデュエット曲である。私が初めて聴いたのは、もう社会人になっていた時で、海外出張からの帰りの飛行機の中においてであった。
 
どこの国か忘れたが、東南アジアの国に長い間行かされていて、ようやく日本に帰れる、早く東京に着かないかなと思っていた。
到着したら、真っ先にあの娘に逢いたいなあと思った。でも、そのようなあの娘は、いないのであった。
二〇一七年三月一八日の女の人は、この曲はまったくの通常の歌唱法で歌っていた。『卒業』では、あえて少女期の女性の気持ちになるべく抑え気味であった。
 
 
『悲しみよこんにちは』では、思春期のように、快活ではあるが少しブルーな感じの歌い方であった。すなわち、二〇一七年三月一八日からの視点で、一九八五年三月二一日ないし一九八六年の楽曲を俯瞰しており、結果、原曲とは違う味わいを醸し出していた。だが、この『渋谷で五時』は二〇一七年三月一八日の等身大で歌われ、原曲通りの快活さがあった。
すなわち、大人の都会の女性としてのしなやかさであった。
 
 
私と同じく一九八五年三月二一日の『ザ・ベストテン』を、中学生となる不安を抱えながら見て、その後、青春の階段を軽やかに上って行っただろう少女は、いろいろなことを経験しながら、かっこいい女性になっていったのだろうと、まったくの想像なのだが、思う。
 
歌い方から、屈託や暗さがなく生きてきたことが、わかる。いまも全く同じやり方で、過去を振り返らずに生活していることも、歌から伝わってくる。そうして、そういったドラマはすべて、横浜という土地で生まれているのだろう。
 
 
二〇一七年三月一八日ライブを観ることにより、私は一九八五年三月二一日の少年時代にタイムスリップすることが出来た。昔の歌番組の持っていた力はすごいなあと思った。
が、何よりも、この時を超えた旅は、二〇一七年三月一八日の女の人のこれまでの成長の道のりを思わせる歌心、そして、それを支えるバンドメンバーの技量に拠るものだと、痛感した。
 
 
 
追伸:
この原稿は二〇一七年五月一日早朝に書いているが、明日五月二日は、本原稿にも出てくるキヨシローさんの命日である。もうすぐ書き終えるので、一足早く献杯しようと思う。
そういえば、最近見ないが、キヨシローの化粧を真似て『ひとつだけ』を歌っていた奴がいたな。いまも元気でやっているだろうか。
 
そいつとデュエットしていた、あのかわいい女の子は、いまどうしているかな。
 
 


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